館長メッセージ

2009年7月24日

「近代教育をささえた教科書」にどうぞ

日本の近代化にあたって、教育がはたした役割の大きさについては、いまさら強調するまでもないでしょう。とりわけ初等・中等教育の水準や徹底性は、世界でも類をみないほどだといわれます。それあってこそ、かなり短い年月のうちに、近代社会を建設することができました。

その近代教育には、いくつもの理由があったでしょう。大人たちが子弟たちの教育に託した大きな期待、政府をはじめとする社会機構が投入した費用と配慮。それらとならんで、教育現場の教室における先生たちの熱意と工夫。わたしたちは、子どもの時代を思いかえして、その情景を心に浮かべます。

なんといっても、その主役は教科書でした。小学校から中学校まで、あらゆる教科にはそれぞれの教科書がありました。いまでもそのいくつかについてははっきりとした記憶があります。新学年になって、あたらしい教科書を手にしたときのあのときめきが、鮮やかによみがえります。学校は教科書とともにあったのです。

明治初年に始まった検定制度から、国定教科書へ、そして太平洋戦争後、再度の検定制までのその点数は数えきれないほどです。驚くべきことに、それら国定、検定の教科書のほとんどが、1か所にまとめて所蔵されています。かつて文部省が、行政上の必要から収蔵していたものが、移管された結果だというのです。

東京書籍株式会社附設の東書文庫がそれです。東書文庫そのコレクションの中核部分がこのたび国の重要文化財に指定されました。文化財としてきわめて貴重だということが認められたわけです。

今回の展覧会は、そのうちから88点を選りすぐってご覧いただきます。近代日本の子どもたちは、いったいどんな教科書で勉強してきたのか。それを偲ぶよすがになるでしょう。そればかりか、あなたとわたしが、あのなつかしい教室で向きあった教科書は、じつはどんな姿をしていたのか。見るだに、涙がこぼれそうな旧懐の念にとらわれるかもしれません。

近代の教科書にくわえて、それの先駆となった江戸時代の寺子屋の教科書や、明治以降の教室で使われた教科用の掛図なども、あわせて展示いたします。これらをとおして教育大国・日本の、秘密にせまれればと考えました。

現在の日本では、ことに初等・中等教育にはむずかしい問題が山積しています。

その解決には、多数の方策が講じられる必要があることでしょう。文化財としての近代教科書のなかから、そのためのヒントを引きだすことができたら、たいそう幸せです。どうか、皆さんでおいでいただき、そしてさまざまなご意見やご批評をいただけますでしょうか。

印刷博物館館長

樺山 紘一

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館長プロフィール

印刷博物館館長

樺山 紘一

1941年、東京生まれ。1965年、東京大学文学部卒業、同大学院修士課程修了後、1969年から京都大学人文科学研究所助手。1976年から東京大学文学部助教授、のち同教授。2001年から国立西洋美術館長。2005年から印刷博物館館長、現職。専門は、西洋中世史、西洋文化史。おもな著作に『異境の発見』、『地中海、人と町の肖像』、『ルネサンスと地中海』、『歴史のなかのからだ』、『西洋学事始』、『歴史の歴史』、『ヨーロッパ近代文明の曙 描かれたオランダ黄金世紀』など。