印刷博物館ニュース

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Vol.86 - 特集1 -

「地図と印刷」

9月17日から「地図と印刷」展がはじまりました。私たちが暮らしていくうえで無くてはならない地図。
現在は印刷物に限らず、スマートフォンなどさまざまなメディアで展開され、コミュニケーションの幅が広がっています。
地図は古来、地理情報を伝える表現技法のひとつとしてつくられてきました。
では、地図が人々に印刷物として受け入れられてきたのはいつ頃なのでしょうか。日本では近世に地図が印刷物となって登場します。
展覧会では日本の近世を中心に、地図や地誌づくりにおける印刷と人々とのかかわりを探り、その見どころをダイジェストでご紹介します。

第1部 日本の印刷地図のはじまりと文治の展開

日本で印刷された地図のはじまりは、古活字版『拾芥抄(しゅうがいしょう)』に所収された図でした。日本では京都で木版印刷による民間での印刷・出版がはじまりますが、地図の印刷も同様にスタートします。最初は「行基図」という中世以来の世界観をもった日本図が描かれます。「行基図」は、五畿七道という古代律令制での行政区分の国々を団子のような曲線で囲み集めて、道線でつなぎ、山城国(京都)を起点に諸国への経路を描いたものです。また印刷された都市図も寛永期という江戸初期の早い段階で誕生します。
江戸幕府による文治政治が展開され、社会が成熟・安定してくると文芸・学問も発展しました。いわゆる元禄文化です。文化の受け手となる層が広がります。17世紀末から18世紀初頭には浮世絵師・石川流宣(とものぶ)が登場します。流宣は日本図として「本朝図鑑綱目」やそれを改訂した「日本海山潮陸図」、都市図(江戸図)の「江戸図鑑綱目」、世界図などを精力的に手掛けていきます。「日本海山潮陸図」は、浮世絵師ならではのデフォルメされた日本の絵画的な表現と色彩の豊かさをいかしています。一方で都市、寺社、名所などの地誌情報に、江戸時代の大名らの人名録『武鑑』の要素を加えたりと、実用的な情報が多く盛り込まれています。見るのも楽しい「絵図」といえます。その流宣による日本図は人気を博し、元禄という浮世を代表する地図となります。「流宣図」として1世紀近くにわたって人々に受け入れられ「絵図」が大衆化していきました。
一方で文治政治の展開は、学問を重視し、実証的な考え方が進み、歴史学や自然科学では本草学に代表されるような実用的な学問が発達します。正しさを探求しようとする動きが知識人を中心に現れました。地図づくりでは中国的な地理学の考え方に影響を受け、考証された地図づくりや地誌編纂が行われていきました。

❶「日本海山潮陸図」
(所蔵・画像提供:明治大学図書館)

第2部 地誌の探究と拡がる世界

正しい日本の地図の姿を追い求めたのが、長久保赤水(ながくぼせきすい)です。赤水は水戸藩・高萩の地理学者で、日本図「改正日本輿地路程全図(かいせいにほんよちろていぜんず)」を制作しました。赤水が手掛けた日本図は「赤水図」として、先ほどご紹介した「流宣図」にとってかわりました。近世後期から明治に至るまで、日本人にとっての「日本」のイメージとして用いられました。国内では改訂が繰り返されたり、参考にしてさまざまな地図がつくられるだけでなく、西洋でも貴重な日本の参考資料となりました。
8代将軍・徳川吉宗による漢訳洋書の輸入緩和は、蘭学の発展を促しました。蘭学を志す者を中心に、蘭書から西洋の学問や技術、地理などの情報を取り入れます。司馬江漢は、腐食銅版画(エッチング)の技術を独自に工夫を重ねて習得し、「地球全図」や『和蘭天説(おらんだてんせつ)』所収の「地球隋円図」などをつくり出していきました。薩摩藩主・島津重豪(しまづしげひで)は「円球地海万国全図(えんきゅうちかいばんこくぜんず) 」という江戸時代最大の世界地図を制作しました。それらの地図は、西洋では当時の最新のものではなく、一昔前の地図情報でした。
また、福知山藩主・朽木昌綱(くちきまさつな)は、日本人により最初に刊行された本格的なヨーロッパの地誌書『泰西輿地図説(たいせいよちずせつ)』を著しました。今までは遠い存在であったヨーロッパの学問や地理知識を吸収していくことで、今までの中国を中心とした世界からさらに広い世界へと目が向けられ、世界の認識が拡がっていきました。

❷「改正日本輿地路程全図」
[資料No.77585]

第3部 世界との接近と伊能図の衝撃

地図を見ると、日本は四方を海に囲まれた島国であることがわかります。この点に着目して、当時の世界情勢を敏感に感じ取り、日本の海防の必要性を、印刷・出版により広めようとした人物がいます。林子平です。子平は『三国通覧図説』を大手版元の一角・須原屋市兵衛から、また『海国兵談』を自費出版し、海防の普及を目指しました。しかしながら、時は老中・松平定信による寛政の改革下、市中を混乱に陥れてしまうと幕府に捉えられ、両書とも絶版扱いとなってしまいました。しかし、ロシアの南下政策が進み、西洋列強も日本と接触を試みるなど、子平の語っていたことが現実となり、海防意識が高まりました。松平定信も実は海防に強い関心を示し、西洋の地理情報や学問にも目を向けていたため、亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)をとりたて、銅版画を習得させます。幕府内でも天文方を中心に、最先端の地理情報を得ようとする動きがでてきます。天文方の高橋景保(かげやす)は幕府の命を受けて、世界地図「新訂万国全図」の製作にとりかかり、銅版印刷で刊行します。田善はその地図の銅版彫刻を手掛けました。地図と印刷を通してみると、松平定信の周辺で地図と外交のかかわりが深まるなかで、地図づくりが動いていきました。

日本人で地図といえば、誰を思い浮かべますか?おそらく伊能忠敬ではないでしょう
か。伊能忠敬は、日本で初めての実測地図「大日本沿海輿地全図」をまとめた人物として有名です。忠敬による測量で実測の海岸線が結ばれると、私たちにも馴染みのある明確な日本の形状が浮かびあがってきます。開国以降は海国日本の境界線として、意識が芽生えていきます。それを促すきっかけになったともいえるかもしれません。
忠敬の実測地図はあまりに正確だったため、機密情報扱いで、シーボルト事件をも引き起こしました。しかし、のちに印刷物となります。近代にも引き継がれ礎となり、活用され続けていきました。
伊能図は大図・中図・小図があり、小図が「官板実測日本地図」として、慶応期(1865~1867年)に刊行されました。また、伊能図の写しがイギリスに伝わり、イギリスで刊行されました。勝海舟はその地図と巡り合い、海軍伝習所での必要教材として翻訳させ、木版で「大日本国沿海略図」を刊行しました。

開国を迎え、鎖国体制が終了すると、大きく変貌をとげようと幕府や知識人が世界へと目を向け、洋学に目覚めていきます。その関心を映し出すかのように詳細な世界地図の刊行が多くなりました。佐藤政養(まさやす)による「新刊輿地全図」、箕作省吾(みつくりしょうご)「新製輿地全図」などがあります。その後時代が明治になると、政府は国土を把握するため、地図づくりにおいても西洋の技術習得に励み、より正確な地図の製作を目指しました。銅版や石版印刷といった印刷技術を用いて官と民でさまざまな地図が印刷・出版されていくことになります。
(印刷博物館 学芸員 宇田川龍馬)

❸『三国通覧図説』より「三国通覧輿地路程全図」
[資料No.77702]
❹「官板実測日本地図」より「畿内東海東山北陸」
[資料No.77507]