印刷博物館ニュース

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vol.87 - 特集2 -

ド・ロ神父の伝えた印刷

16世紀のキリスト教の伝来により「キリシタン版」がつくられ、近代活版印刷の祖である本木昌造の足跡が残るなど、長崎県は、日本のなかでも印刷文化の厚い地域といえるでしょう。
長崎市中心部から北西方向におよそ40km、外海(そとめ)地区にはかつてド・ロ様と慕われ、地域の発展に尽くしたカトリック神父がいました。
日本で初めて石版印刷を伝えた人物としても知られています。

長崎とキリスト教

1549(天文18)年に日本にキリスト教が伝わると、大名の保護のもと布教が進み、九州や関西を中心に信者が増えました。教皇謁見のためにローマを訪れた天正遣欧少年使節団は、グーテンベルクによる西洋式活版印刷術を持ち帰り、布教のための教義書やラテン語教科書、辞書などを印刷します。16世紀末から17世紀初頭につくられた、これらの書物を「キリシタン版」と呼び、加津佐(かづさ)や天草、そして長崎でも印刷されました。
しかし、為政者の脅威とみなされたキリスト教は、使節団帰国前の伴天連(ばてれん)追放令〔1587(天正15)年〕にはじまり、二十六聖人の殉教〔1596(慶長元)年〕、全国的なキリシタン禁教令布告〔1614(慶長19)年〕など、次々に激しい弾圧にあいます。信者たちは「隠れキリシタン」として潜伏し、代々信仰を守りました。
1863( 文久3)年、殉教者の子孫の存在を信じたプチジャン神父が来崎します。65( 元治2)年には、26人の殉教者の列聖を受け建設された大浦天主堂に隠れキリシタンたちがやってきて信仰を告白、東洋の奇跡と呼ばれる「信徒発見」です。プチジャンは信徒指導と宣教のために日本で印刷・出版をすべく、印刷術を有し、殉死もいとわない宣教師を探します。そして自ら手を上げ、高い志をもってやってきたのがフランス人宣教師ド・ロ神父でした。

❶ド・ロ神父像 長崎市ド・ロ神父記念館

ド・ロ神父来日と石版印刷

北フランスの貴族出身のマルコ・マリー・ ド・ロ(1840~1914年)は1865年に司祭に叙階されます。外国宣教会に所属し、プチジャンの要請を受け、パリで石版印刷術を習得します。1868( 慶応4)年6月に長崎に降り立ったド・ロ神父は大浦天主堂に着任し、翌月には最初の印刷物である教会カレンダーをつくりました( ❷ )。また10月には石版印刷による最初の冊子本『聖教日課』を製作し、3年にわたって宗教書約10種を秘密出版します。同時期に長崎の浦上村全キリシタンの流罪が行われるなど、引き続き弾圧が激化するなか、一時横浜に避難するなど命がけの印刷事業でした。
石版印刷や機械はド・ロ神父来日以前に伝わっていましたが、日本で本格的に普及するのは1874(明治7)年以降、多色刷りの図版印刷にも使われました。ド・ロ神父は石版印刷による出版を日本で行った最初の人物といえるでしょう。主にキリシタン特有の伝統語のテキストを漢字や平仮名を用いて印刷しました( ❸ )。
1798年にドイツで発明された石版印刷は、イギリスやフランス、イタリアを中心に急速に普及します。ド・ロ神父が習得した1860年代のパリでは石版印刷所が活版印刷所を上回る数存在していたとされます。図版のほか、手書き文字や少部数のビジネス文書などその用途もさまざまでした。また、当時活発に行われていた古代研究に登場する楔(くさび)形文字や神聖文字など、非ラテン·アルファベット文字の印刷にも適したこの印刷方法は、東南アジアでの布教にも使われていました。活字をそろえることや銅版印刷のような技能が不要で、手描きで製版できる石版印刷は、身近であるとともに当時の日本での布教活動に最適な方法だったのです。

❷「キリシタン暦(一八六八年歳次戊辰瞻礼記)」
1868(明治元)年、長崎市ド・ロ神父記念館所蔵
❸『くるすのみち行』1873(明治6)年
[資料No.22032]

ド・ロ神父の手がけた印刷(木版・活版)

一方、ド・ロ神父が手がけたのは石版印刷だけではありませんでした。1873( 明治6)年、キリシタン禁制が解かれると横浜から長崎へ戻り、大浦天主堂の敷地内に神学校を設計します。ここで印刷事業を再開し、「ド・ロ版画」と呼ばれる大型の木版画制作を主導、絵画による宣教を開始しました。この版画はキリスト教の教理や聖人を題材としたもので、中国を中心に絵画による宣教に取り組んだフランス人神父、ヴァスールの作品を手本につくられました。ヨーロッパ、中国、日本の思想や文化が融合した独特の魅力を持つ宗教画として、現在まで伝えられています( ❹ )。
同じ頃長崎では、本木昌造が活版技師ウィリアム· ガンブルの協力を得て活字鋳造を開始、新町活版所を設立し、活版印刷が産業として成り立つ基盤をつくりました。ド・ロ神父はこの活字を購入し、1877(明治10)年からは活版印刷によるキリスト教の教理書を出版していきます。手描きをもとにした石版印刷に比べ、文字が整って読みやすく大量印刷に向いた活版印刷は、より多くの人に教えを届けることができる画期的な技術でした。また彼は、文字に親しみのない人びとや子どもにも読みやすいようにとの配慮から、漢字を制限し仮名を中心に構成することにも注力しました。同年発行の『切支丹の聖教』には、当初平仮名が多く用いられていましたが、後年1883(明治16)年には漢字と振り仮名による改訂版が出版されています。この頃既にド・ロ神父は印刷事業から遠ざかっており、ともに出版を推進したプチジャンの活動も終わりを迎えようとしていました。この書は、プチジャンが最後に出版許可を与えた作品であるとともに、キリシタン特有の伝統語が用いられた最後の出版物としても記録されています( ❺ )。

❹ド・ロ版画《煉獄の霊魂の救い》
長崎市ド・ロ神父記念館所蔵
❺『切支丹の聖教』1883(明治16)年
[資料No.55883]

ゆかりの地 長崎県外海地区と功績

印刷事業が軌道に乗っていた1879( 明治12)年、ド・ロ神父は突如長崎・外海地区の主任司祭に任命されます。市中に印刷所が増え技術も向上し、神父自らの手で印刷を行う必要がなくなったのでしょう。以降は海沿いの過酷な風土で知られる外海に根をおろし、厳しい弾圧に耐えた信徒たちとともに村づくりを手がけるようになります。土木、建築、医療などフランスで培ったさまざまな技術を駆使し、土地の開墾、教会堂や救助院、診療所の開設、教育や福祉の充実など、信徒たちの信仰と生活を守るため力を尽くしました。救助院では若い女性が共同生活をおくりながら、パンやマカロニなど長崎の外国人居留地向けの製品を手がけていました。また、日本初とされる保育所も創設されました。ド・ロ神父はこの地で女性の自立を助けることに力を注ぎ、私財を投じることも多かったようです。来日から46年間一度も故郷へ戻らず、信徒たちのためにその生涯を捧げました。その人柄と功績は代々語り継がれ、現在でも外海の人びとから「ド・ロ様」と呼ばれ慕われ続けているのです( ❻ ❼ )。
( 印刷博物館 学芸員 式洋子、 印刷工房 インストラクター 前原啓子)

❻マカロニ工場とド・ロ塀
❼出津教会堂