印刷博物館ニュース

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Vol.88 - 特集2 -

フランスで発展した版画

ヨハネス・グーテンベルクが画期的な活版印刷術を発明した15世紀のドイツで、もう一つ重要な情報伝達手段が誕生していました。
彫刻刀で直接金属板を彫るエングレーヴィングと、鉄筆で描いた線を腐食させるエッチングです。
いずれも強圧の回転式印刷機をつかい、紙にインキをうつし取る銅凹版技法でした。
今回は、ドイツからイタリア、そしてフランスへ銅凹版がどのように展開していったのかみてみましょう。

ドイツからイタリアへ

そもそも金銀を含む金属板に模様を彫る行為そのものはギリシャやエトルリア・ローマなど古代から行われていました。けれども版にして印刷するというアイデアは15世紀以前に見当たりません。1430年頃のドイツで、鍛冶屋が自分のデザインを記録しておくために版画を思いついたとされます。以降、宗教関係に加え、民衆や動物、装飾模様をモチーフにした銅版画が、回転式印刷機で製作されてきました( ❶ )。
この銅板を用いた新しい複製技術に真っ先に注目したのがイタリアの芸術家でした。例えば有名な画家ラファエロは拠点とするイタリア・ローマで、1510年頃から版画家マルカントニオ・ライモンディを雇います。ライモンディに下絵を描かせ、クロスハッチング( 彫線を交差させ濃淡を表現する手法)を工夫したエングレーヴィングを数多く残しました。ラファエロ本人がすべてを監督し、校正しています。ライモンディの素晴らしい技のおかげで、芸術家の作品生産の手法として、モノクロとはいえエングレーヴィングがいかに優れているか証明されました。ドイツで誕生した銅版画がイタリア・ルネサンスの一翼を担っていきます。

❶銅版工房と印刷機
( ヨハネス・ストラダヌス『先端技術集』1550年頃[ 資料No.64319]より)
男性が足で強圧をかけているのが銅版印刷機

エッチングの改良 エングレーヴィングをめざして

銅版術はこのあとフランスでひろまります。まず16世紀初頭から活版印刷とともに本の挿絵として版画がひろがっていきます( ❷ )。この時祷書には微細な線や点描の挿絵が確認できますが、木版ではかなり困難な表現で、金属凸版とおもわれます( ただし墨版のみ。他は手彩色)。金属版は凹版のみならず、凸版でもつかわれていました。
16世紀半ば、フランス国王がイタリアから多くの美術家をパリによび寄せ、版画を製作させました。その影響からフランス人は版画をさらに熱心に手がけていくことになりました。
1600年代初頭のフランス版画史に名を残したのが、ジャック・カロ(1592‒1635年)です( ❸ )。フランスの北東部ナンシー生まれのカロは、1608年にローマで銅版画を学ぶとフィレンツェでメディチ家に仕え、宮廷の様子や祝祭の版画を残します。生涯に1,400点超のエッチング作品をのこしたカロは、フランスに戻ると戦争の悲惨な光景、死神、喜劇俳優、旅芸人の姿を取りあげました。のちにデッラ・ベッラ(イタリア)やゴヤ(スペイン) など各国を代表する版画家に影響をあたえていくことになります。とりわけカロの名を高めたのがエショップです。通常のエッチングでつかわれる鉄筆では、画線の「表情」に限界がありました。ところがエショップとよばれる彫刻刀をつかうと、太い線と細い線でビュランのようなシャープでかつ豊かな表現が可能となります。エッチングによってエングレーヴィングのような効果もえられるようになったのです。技術改良でありイノベーションともいえるでしょう。カロの弟子にあたるアブラハム・ボスが銅版画技法書のなかで丁寧にこの偉業を紹介しています( ❹ )。

❷フィリップ・ピグーシェ印行『時祷書』1502年
[資料No.72894]細かな点刻を確認できる
❸荊冠を受けるキリスト
(ジャック・カロ『小さな受難伝』1624年[資料No.76432]より)
❹アブラハム・ボス『銅版技法について』1701年
[ 資料No.45114]エショップの使い方を解説

フランスで進化したカラー銅版画

1640年頃からフランス革命が起こる1789年まで、フランスがヨーロッパ印刷市場を支配することになります。長引く戦争や政争で他国が国力を落とすなか、植民地貿易や国内工業発達によりヨーロッパに君臨したフランス。経済的繁栄に加え、宮廷や貴族による学問芸術の保護政策のおかげで、詩、演劇、芸術、音楽、科学などが花開くヨーロッパ随一の文化国家にフランスはなっていました。「芸術の都」になったパリでは、従来のエリート層に加え、大商人や職人にまで社交・文化生活がひろまり、新たな読者層がうまれます。文芸サロンや読書クラブに出入りし、貸本屋で本を入手する読者のなかには、書斎に油彩画を飾る教養人も現れました。高まる需要に画壇だけではこたえきれません。そこで色彩あふれる名画の代わりとなる「コピー」がひろく求められることになります。
フランスにルーツをもつル・ブロンは、ニュートンが発見した光と色の理論をヒントに、3色の色版を「重ね」、フルカラー再現するメゾチントを開発します。ドイツで版画が誕生して以来、印刷の多色化は長年の懸案でした。そのような苦闘の歴史に終止符を打つ印刷理論がエングレーヴィングの一種、カラーメゾチントだったのです。1737年にはフランス国王から許可を得て名画を複製する事業を立ちあげ、さらに弟子ジャック・ファビアン・ゴーティエ・ダゴティは同技法による人体解剖図を出版します( ❺ )。ゴーティエ・ダゴティは表面にニスを塗ることで、油彩画のような効果を出しています。増え続けるブルジョワ層の居間を飾る絵画の代わりとして、こういったメゾチント銅版が人気を博しました。
一方でル・ブロンにはじまるフランスでの多色刷銅版画がフランス革命を機に下火になったのは、政治の混乱ばかりが要因ではありません。同時代に登場した石版画(リトグラフ)のおかげで、より簡単に油彩画のコピーが可能になったのです。しかし、そこにはル・ブロンやゴーティエ・ダゴティが体現した色彩理論が生きづいていました。カラーメゾチントの三色説は現代の印刷現場にまで受け継がれていくことになります。
カロによるエショップやル・ブロン/ゴーティエ・ダゴティによるカラー印刷のように、17-18世紀フランスの版画の現場で、新たな道具や印刷手法がうまれました。本の挿絵はもちろん、アートや人体解剖図のような科学分野で、情報メディアとして確かな地位を銅版画は獲得していったのです。
(印刷博物館 学芸員 中西保仁)

❺ジャック・ファビアン・ゴーティエ・ダゴティ「頭部解剖図」1746年
[ 資料No.58891]油彩画の効果を求めてニスを引いている
メゾチント:エングレーヴィングの一種。あらかじめ細かな傷をつけた銅板の表面を彫刻し、絵柄を描出する銅版技法。暗闇に人物や物体が浮かび上がるような効果が特徴

斎藤敦氏ご遺族様からの寄贈資料の一部をご紹介しています。改めてここに感謝の意を表します。

【参考文献】
・Turner, Jane. “The Dictionary of Art.” New York: Grove’s Dictionaries Inc., 1996.
・Griffiths, Antony. “Prints and Printmaking.” London: British Museum Press, 1980.
・“Anatomie de la couleur.” Paris, Lausanne: Bibliothèque nationale de France / Musée Olympique Lausanne, 1996.