印刷博物館ニュース

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Vol.89 - 特集2 -

マインツからスビアコへ

15世紀半ばにヨハネス・グーテンベルクがマインツ(ドイツ)で完成させた西洋式活版印刷術は、グーテンベルクの弟子たちによってドイツ国内および周辺地域に瞬く間に広がります。
アルプスを越えたイタリアでも、いち早くスビアコに活版印刷術が伝わります。
ほかの地域にくらべて飛び地ともいえるこの場所に、なぜかくも速やかに活版印刷術が伝わったのでしょうか。

マインツを飛び出す活版印刷術

1455年頃、グーテンベルクは西洋式活版印刷術による『42行聖書』完成間近に、出資者のヨハン・フストに訴訟を起こされ、印刷機材を没収されます。その後弟子のペーター・シェーファーは、フストとともにマインツで印刷事業を拡大します。しかし市内の動乱もあり、ほかの弟子たちはこの新しい技術を携え、各地で自身の工房を開き、活版印刷術をヨーロッパで広めました。かつてグーテンベルクが活動していたストラスブール(1459)をはじめ、バンベルク(1460)、ケルン(1465)、バーゼル、アウクスブルク、ジュネーヴ(1468)など、ドイツやその周辺地域を中心にこの新しい技が伝播するなか、アルプス山脈を挟んだイタリアでは、1465年にスビアコという街で初めて活版印刷本が出版されました( ❶ )。マインツから遠く離れたこの場所で印刷を広めたのもグーテンベルクの弟子とされる2人の人物でした。

❶ヨーロッパにおける活版印刷術の伝播(~1469年)

イタリア最初の活版印刷

スビアコは現在のラツィオ州ローマ県に属し、ローマ中心地より東に50㎞ほど離れた小さな街です。皇帝ネロが別荘地をかまえ、聖ベネディクト(480年頃~547年頃)が13の修道院を創設するなど、古くから古代ローマ帝国、またローマ教皇の庇護下にある歴史ある場所です。その修道院の一つ、サンタ・スコラスティカ修道院( ❷ ❸ )を、グーテンベルクのもとで印刷術を習得したコンラート・スワンハイムとアルノルト・パンナルツが訪れます。ここで彼らは4点の書籍、ラテン語文法書『ドナトゥス』(1465年)、キケロ著『弁論家について』(1465年、❹ )、ラクタンティウス作品集(1465年)、アウグスティヌス著『神の国』(1467年)を印刷します。
彼らの功績の一つは、この地で使われた活字書体です。写本の複製を目指した初期印刷本は、主に宗教書などに使われたテクストゥーラ体などを模した、ブラックレター(ゴシック)体が使われました。しかしルネサンスの風が吹くイタリアでは、ユマニスト( 人文主義者)体とよばれる写本書体が使われていました。ユマニスト体を模したとされるスビアコ活字は、ゴシックの雰囲気を残した、ローマン体との中間的な書体でプレ・ローマン体とも呼ばれ、ローマン体の嚆矢(こうし) といわれています。

❷サンタ・スコラスティカ修道院遠景
❸サンタ・スコラスティカ修道院内部
❹キケロ『弁論家について』コンラート・スワンハイム&アルノルト・パンナルツ印行、1465年、スビアコ
Photo:CRAI Biblioteca de Fons Antic (UB)

15世紀のスビアコとトルケマダ枢機卿

なぜこの2人の印刷者はスビアコに向かったのでしょうか。
10世紀にかけて盛りを迎えたこの修道院は13世紀頃になると怠惰なイタリア人修道士の存在や災害、黒死病により、衰退の様相をみせるようになります。1363年、シエナ出身のバルトロメオ3世が大修道院長に選出されると、改革を実行します。居住する修道士を鍛錬し、救いがたい修道士は追い払い、他の地域・国から空席分の修道士を招き入れたのです。とりわけドイツ語圏の人々がこの招待を前向きにとらえ、1364年から1510年頃まで、スビアコはドイツ人修道士が多数を占めるヨーロッパコミュニティとなりました。1464年の記録によると、在籍する修道士の6割以上がドイツ人で、ドイツからスビアコを訪れる巡礼者や旅行者、芸術家も多く、スワンハイムとパンナルツがこの地で出版活動をする素地が整っていたことがうかがえます。
また、そこにはある枢機卿の働きがありました。ホアン・デ・トルケマダ―スペインの初代異端審問長官であったトマス・デ・トルケマダの叔父で、中世後期の最も偉大な神学者の一人とも言われています。1455年にサンタ・スコラスティカの大修道院長に任命された彼は、聖職者でもあったこの2人の印刷者をスビアコに招き、書物を印刷させたとされます。

イタリア第2の印刷地ローマ

トルケマダ枢機卿は、教皇庁のお膝元であるローマにもドイツから印刷者を招聘します。ローマで最初に印刷所を開いたウルリヒ・ハーンは1467年、トルケマダ枢機卿の著作『瞑想録』を出版。これはイタリアで最初に木版挿絵が入った印刷本です。
一方同じ年、スワンハイムとパンナルツがスビアコでの役割を果たすと、彼らもローマに移ります。ナヴォーナ広場に近いマッシモ・アレ・コロンネ宮で、彼らはキケロの書簡集を皮切りに宗教書や古典を多数出版します。アレリアの司教で人文主義者であったジョバンニ・アンドレア・ブッシの協力もあり、1472年頃までに12,000部をこえる書物を印刷するなど精力的に活動する一方、市場のニーズに対し在庫が積み上がり、次第に経済的に困窮します。時の教皇シクストゥス4世に助けを請うもののうまくいかず、1473年にこの2人の印刷者は協力関係を解消します。

印刷業が花開くヴェネチア

その後イタリアで印刷業が活発化したのは商業都市として栄えたヴェネチアでした。世界に開かれた港をもつこの都市は経済のハブであり、15世紀欧州最大の印刷センターに成長します。最初に、ドイツ出身の金細工師で印刷術を習得したヨハン・デ・スピラが当局から5年間の印刷独占許可を取得。キケロの書簡集(1469年)を皮切りに、スビアコ活字よりも洗練されたプレ・ローマン体の活字書体で印刷しました。しかし間もなくヨハンが亡くなり兄弟のウィンデリンが後を継ぎました( ❺ )。ヨハンの死で独占権が解除されると、スピラ兄弟の活字制作をサポートしたとされるフランス人のニコラ・ジャンソンが1470年に印刷所を開設、さらに洗練された活字で印刷本を制作します。今日ヴェネチアンと呼ばれる初期ローマン体活字( ❻ )です。ジャンソンは母国フランス王の命令で1458年頃、マインツでグーテンベルクに活版印刷術を学んだとされる貨幣鋳造者でした。母国に戻らず、その教えを携え、大都市で人文主義者たちに受け入れられた活字を製造します。彼の活字はヴェネチアをはじめ北イタリアに流通したほか、その活字デザインは後世にも大きな影響を残しました。
ドイツを震源地とした活版印刷術は、このような経緯で異国のイタリアで開花しヴェネチアではその後アルド・マヌーツィオにより更なる盛り上がりを見せたのです。
(印刷博物館 学芸員 式洋子)

❺キケロ『弁論家について』ウィンデリン・デ・スピラ印行、1470年、ヴェネチア
[資料No.75420]
❻プリニウス『博物誌』ニコラ・ジャンソン印行、1472年、ヴェネチア
[資料No.20684]
【参考文献】
・ Gabriele Paolo Carosi, “La stampa da Magonza a Subiaco”, Edizioni Monastero Santa Scolastica, Subiaco, 1994.
・ The Benedictine Fathers of Subiaco, “Saint Scholastica’s
monastery and Saint Benedict’s monastery in Subiaco A historical and artistic guide”, Edizioni Monastero Santa Scolastica, Subiaco, 2008.
・ Christelle Kirchstetter, Thomas Huot-Marchand, Jérôme Knebusch, “Gotico-Antiqua, protoromain, hybride 15th century types between Gothic and Roman: Caractères du XVe siècle entre gothique et romain”, Nancy, Les Presses du réel, 2021.
・ William Dana Orcutt, “The magic of the book: more reminiscences and adventures of a bookman”, Little Brown, 1930.
・ 上智大学、独逸ヘンデル書肆『カトリック大辞典』(3巻)、冨山房、1952年