印刷博物館ニュース

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Vol.90 - 特集1 -

「明治のメディア王 小川一眞と写真製版」展が始まります!

小川一眞という人物をご存じでしょうか。明治期に活躍した写真師で、千円札に使われた夏目漱石の肖像などを撮影しました。
実は撮影だけではなく、写真製版によってたくさんの印刷物を製作し、出版したことはあまり知られていません。
11月18日(土)から始まる本展覧会では知られざる写真製版界の偉人に焦点を当てます。

はじめに―写真との出会い

小川一眞(1860〔万延元〕年~1929〔昭和4〕年〔享年69〕)は忍(おし)藩士原田庄左衛門の次男として武蔵国忍城下(埼玉県行田市)で生まれました。幼名は朝之助でしたが、3歳で忍藩士小川石太郎の養子となり、名を一眞と改めます。13歳で東京の報国学社に入学し、写真好きの英人教師ケンノンと出会い、小川は写真機や写真の仕上がる工程に興味を持ちました。卒業後は熊谷の吉原秀雄写場で湿板写真術を習得し、17歳で現在の群馬県富岡市で撮影業を開始します。ここまでは一般的な写真師の生い立ちと変わりませんが、この後、桁違いの行動力を発揮します。

アメリカで身につけた写真と印刷の技術

小川は約3年で写真撮影業をやめて、21歳のときに再び上京します。横浜警察署で英語通訳の仕事をしながら学費を稼ぎ、1882( 明治15)年1月に築地大学校に入学しました。ここで英語力に磨きをかけたことが、その後の人生を大きく変えます。同年7月にアメリカ海軍軍艦スワタラ号に乗り込み、横浜を出発しました。
アメリカに渡ってからは主にボストンの写真館、リッツ&ハスティングスで働きました。ここは肖像写真を撮影するスタジオを所有し、撮影だけではなく、写真製版部もあり、写真帖の印刷もしていました。大規模かつ組織的に写真業と印刷業を営むアメリカの写真スタジオから、小川は日本の写真館では経験できない多くのことを学びました。また、当時のアメリカの写真はガラス湿板からガラス乾板が使われる時代へ移行していました。ジョージ・イーストマンがガラス乾板の大量生産を可能にする機械を考案し、1880年から商業生産を始めていました。
こうしてボストン滞在中の小川は、撮影技術、暗室技術、乾板での撮影と乾板製造、コロタイプ印刷などの写真製版術も修得しました。そして、帰国後は写真と写真の印刷を手掛ける会社を設立し、そこでは乾板の製造も行うという計画を立てます。ここで描いたビジョンによって、この後の小川はぶれることなく事業を展開していきます。

写真製版印刷の始動

1884( 明治17)年に帰国した小川は、翌年麹町区飯田町に営業写真館「玉潤館」を開設します。そして1888(明治21)年にコロタイプによる写真製版印刷業を開始、神田区三崎町に写真製版工場を設置しました。同年に明治政府による近畿宝物調査が実施され、小川は宮内省より撮影の任を帯びて参加します。この調査団には九鬼隆一、岡倉天心、フェノロサなどがいました。
1889( 明治22)年に高橋健三、岡倉天心が國華社を設立し、美術雑誌『國華』が創刊されます。小川が近畿宝物調査の際に撮影した「無著(むちゃく)像」がコロタイプで印刷され、『國華』創刊号に掲載されました( ❶ )。岡倉天心は図版の品質を重視しており、小川の写真と印刷の技術を高く評価していたようです。
コロタイプ印刷とは、版式としては水と油の関係性を利用する「平版」に分類されます。版の材料としてガラス板を使用することが特徴です。コロタイプの「コロ」とは膠にかわ、つまりゼラチンのことで、感光液を含んだゼラチンが、光にあたると硬化する性質を利用しています。大まかな製版の工程は以下の通りです。
①よく磨かれたガラス板にゼラチンを主成分とする感光液を塗布し乾燥させる[①]
②乾板と呼ばれるガラス製のネガをゼラチン面に密着し露光する( ※現在はネガフィルムやデジタルデータから出力したフィルム)。ガラスの裏側からも光をあて、版の耐性を上げる(裏焼き)。[②]
③水洗作業。水に浸して露光の進行を止める。その後乾燥させて完成。[③]
②の工程で、ネガの白い部分(シャドウ部)は光を通し、露光時にゼラチン版が硬化します。印刷時、そこは水を含まないのでインキが付きます。反対に、ネガの黒い部分(ハイライト部)は光を通さないためゼラチン版が硬化しません。印刷時、そこは水を含むのでインキが付きません。
さらに③では、ゼラチンの版面に小じわ(レチキュレーション)ができています。コロタイプ印刷は「網点」がありません。レチキレーションの凹部にはインキが入り、インキの付着量によって階調を表現します。このようにコロタイプは「平版」でありながら、「凹版」の特徴をもっています。すべてを白と黒の濃淡だけで描写するモノクロ写真の世界では、白と黒の間、中間の表現が重要になります。コロタイプ印刷はここで力を発揮しました。

❶『 國華』第1号より「無著像」
[資料No.59609]
① ガラス板に感光液を塗布する
②露光(裏焼き)
③水洗

コロタイプ印刷による快進撃

小川は『國華』の図版をコロタイプで印刷した頃から、印刷業に重点を置き、さらに出版と結びつけて事業を展開していきます。『國華』への協力は、創刊号から211号まで約18年間続きました。その他には『The Great Earthquake in Japan, 1891』、『The Hakone District 』、『ILLUSTRATIONS OF JAPANESE LIFE( ❷ )、『日本美術帖』、『日本鉄道紀要』、『真美大観(しんびたいかん)』( ❸ )、『Histoire de lʼArt du Japon. 』、『東京帝国大学』、『THE CHARMING VIEWS IN THE “Land of the Rising Sun.”』( ❹ )、『日清戦争写真帖』、『日露戦役写真帖』など、数えきれないほどの印刷物をコロタイプで印刷、出版しました。出版されたジャンルは美術分野だけではなく、地震、肖像、鉄道、風景、戦争など多岐にわたります。
次号はコロタイプ印刷の続きと小川一眞が導入したもう一つの写真製版技術、網目版印刷( 写真凸版印刷)で製作した印刷物を中心に紹介します。
(印刷博物館 学芸員 川井昌太郎)

❷『ILLUSTRATIONS OF JAPANESE LIFE』
 [ 資料No.45717]
❸『真美大観』第1冊
[資料No.75884]
❹『 THE CHARMING VIEWS IN THE “Land of the Rising Sun.”』
[資料No.78022]
【主要参考文献】
・ 岡塚章子著『帝国の写真師 小川一眞』国書刊行会、2022年
・ 全日本コロタイプ印刷組合編集委員会編著『日本コロタイプ印刷史』全日本コロタイプ印刷組合、1981年

コロタイプ印刷撮影協力
株式会社便利堂