印刷博物館ニュース

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Vol.91 - 特集1 -

「明治のメディア王 小川一眞と写真製版」展開催中です!

前回に続き、小川一眞の特集をお届けします。
忍藩(埼玉県行田市)に生まれ、写真と出会い、アメリカで最新の写真術と印刷術を身に付けた小川一眞は、帰国後、文化財の撮影などで実績をつくり、さらにコロタイプでたくさんの写真集を印刷、出版していきました。次はどのように行動したのでしょうか。

新たな事業展開 網目版印刷の導入

小川一眞(おがわかずまさ)は、1893( 明治26)年にアメリカで開催されたシカゴ万国博覧会(5~10月)にあわせて開かれた、万国写真公会の委員として、また、博覧会の会場風景を撮影するために渡米します。最初の渡米(1882~1884年)から約10年後の2度目の渡米でした。
博覧会の会場で、日本政府は日本の品位と威厳を示すため、日本固有の建築物を造ることを決め、宇治平等院の鳳凰堂を模した独自のパビリオンを建てました。「鳳凰殿」は、左翼が藤原時代、右翼が足利時代、中堂が徳川時代を象徴するもので、それぞれに内装が施され、室内調度品がしつらえられていました。室内装飾は東京美術学校が担当し、美術・調度品は帝国博物館が選定しました。
小川は「鳳凰殿」に解説書がないことを知り、現地で英語の解説書『ILLUSTRATED DESCRIPTION OF THE HO-O-DEN (PHOENIX HALL) AT THE WORLDʼS COLUMBIAN EXPOSITION 』を印刷、出版します。解説は東京美術学校校長の岡倉天心、出版元は小川一眞です。小川はコロタイプ印刷ではなく、当時のアメリカで広まりつつあった、網目版(あみめばん)印刷でこの解説書を製作しました( ❶ )。

➊『 ILLUSTRATED DESCRIPTION OF THE HO-O-DEN (PHOENIX HALL) AT THE WORLD’S COLUMBIAN EXPOSITION』
(江戸東京博物館蔵)

網目版印刷とは

網目版印刷は、版式としては木版や活版と同じ「凸版」に分類されます。版の材料として亜鉛、銅、マグネシウムなど金属を使用し、今では樹脂を使うこともあります。「網目版」とは、スクリーンを使用して網点を形成することからそのように呼ばれていましたが、現在では製版カメラや網目スクリーンを使わなくなったこともあり、印刷業界では写真凸版(しゃしんとっぱん)という呼び方が定着しています。現在の写真凸版の大まかな製版工程は以下の通りです。なお、写真にある版材は亜鉛です。

①網点に変換した画像データを、感光膜の付いた亜鉛板にレーザーで焼き付ける( 露光)。その後、アルカリ性の現像液に浸すと、レーザーが当たった感光膜は版に残り、当たっていない部分は流される(現像)。〔①〕
②エッチング装置に版をセットして、均一にエッチング液をかけていく。時間とともに、感光していない部分は腐食され( 金属が溶ける)、感光した部分は凸状に残る。〔②〕
③版に付いた油分を洗い流し、乾燥させた後、浸食具合を深度計で測る(約0.75~0.8㎜が適正値)。仕上げとして、朴炭(ほうずみ)などを使い凹凸を滑らかにする。最後は亜鉛板の感光膜をアルカリ液で取り除き、水洗、乾燥させて完成。〔③〕

写真凸版の印刷では、凸の先端に付けたインキを紙に移します。よって、凹凸を形成する②の工程が特に重要で、温度と時間の管理に気を配る必要があります。
コロタイプはゼラチンの版面にできた小じわ(レチキュレーション)を利用し、レチキュレーションの凹部に入ったインキの付着量によって階調を表現します。それに対して写真凸版は、凸部の先端の大小、つまり網点の大小によって、濃淡を表現します。写真凸版は、原稿の中間色( 白と黒の間の色)の再現性ではコロタイプに劣りますが、金属版を使用するため、ガラスとゼラチンを使用するコロタイプの版よりも耐刷力(たいさつりょく)があります。また、版式は凸版であるため、活字と一緒に組んで、文字と図像を一度で印刷できるというメリットがあります。

①露光した亜鉛板をアルカリ性の現像液に浸す
②エッチング装置に版をセットする
③浸食具合を深度計で測る

事件の報道で本領を発揮した網目版印刷

小川は帰国後、コロタイプ印刷に加え、1894(明治27)年2月から網目版印刷業も開始しました。小川の技術は、同年に始まった日清戦争の報道に役立てられ、『東京朝日新聞』で採用されました。1894年6月16日の本紙附録(「朝鮮国京城全図「朝鮮陸軍兵整列の図」「朝鮮陸軍の領官」「朝鮮陸軍の隊官」)はブランケット判サイズ(545×406㎜)で発行されました( ❷ )。博文館から同年8月30 日に第一編が出版された『日清戦争実記』でも小川の網目版が使われました。巻頭には有栖川陸軍大将など軍人の肖像写真が掲載され、「小川一眞写真彫刻銅版及印刷」の記載があります( ❸ )。
1904( 明治37)年に始まった日露戦争では、日清戦争よりもはるかに多くの戦況を伝え、戦果を喧伝する印刷物が製作されました。小川はその一端を担い、『日露戦役写真帖 全』『日露戦役海軍写真帖』の印刷を網目版で手がけました( ❹ )。
小川が網目版で印刷、出版したものは、戦争報道に関するものだけではありません。ジャンルは多岐にわたり、「三陸東海岸大海嘯被害図」、『富士山』(H・G・ポンティング撮影)、『創業十周年記念 京都綿子ル写真帖』、『故伊藤公爵国葬写真帖』、『東京風景』、『御大葬儀写真帖』などがあります。また、日清戦争や日露戦争に関する印刷物は、コロタイプでも印刷し、『日清戦争写真帖 A PHOTOGRAPHICALBUM OF THE JAPAN-CHINA WAR. Army Section』、『日露戦役写真帖 第二軍第壹号』などを発行しました。
このように小川は、世の中の写真の印刷ニーズを的確に捉え、より適している製版方法を選択したように見えます。納品先( 特定の組織か、日本の一般読者か、外国人か)、部数(数百部なのか、数万部なのか)、写真品質を最優先するのか、納期を最優先するのか、など印刷物を製作するときのポイントを考慮し、コロタイプ印刷と網目版印刷、二つの写真製版を自在に使い分けました。

❷「 朝鮮国京城全図」「朝鮮陸軍兵整列の図」「朝鮮陸軍の領官」「朝鮮陸軍の隊官」
(『東京朝日新聞』第2865号附録)
(東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター明治新聞雑誌文庫蔵)
❸『日清戦争実記』合本第壹編
[資料No.40491]
❹海軍省認可『日露戦役海軍写真帖 全』
(江戸東京博物館蔵)

おわりに―献納された印刷物

最後は晩年のコロタイプ印刷による大作の一つを紹介します。小川は1909( 明治42)年に竣工した東宮御所(現在の迎賓館赤坂離宮)を撮影し、その写真をコロタイプで印刷しました( ❺ )。東宮御所の造営に関わった人々の労に報いるため、建築家の片山東熊(かたやまとうくま)が小川に命じたと考えられています。写真に関するさまざまな事業を展開した小川ですが、やはりコロタイプ印刷には絶対の自信があったと思われます。
まだまだ紹介したいことがありますが、小川一眞の仕事量は膨大で、書き尽くすことができません。ぜひ展覧会会場にて、明治のメディア王が写真製版で製作した印刷物をご覧ください。
(印刷博物館 学芸員 川井昌太郎)

❺「 東宮御所御写真」より「朝日之間西北隅」
(東京大学総合研究博物館蔵)
【主要参考文献】
・ 岡塚章子著『帝国の写真師 小川一眞』国書刊行会、2022年
・ 川井昌太郎・岡塚章子企画編集『明治のメディア王 小川一眞と写真製版』(展覧会図録)、印刷博物館、2023年

写真凸版撮影協力
株式会社学術写真製版所