印刷博物館ニュース
ルターとヴィッテンベルクの印刷者
欧州での活版印刷による最初のメディア・キャンペーンといえる16世紀のドイツ宗教改革。
その中心人物であるマルティン・ルターは多くの著作を出版することで自身の思想の伝播に役立てました。
それは支えた仲間の存在はもちろん、印刷者なしには成立しません。
印刷博物館の収蔵品を通して、印刷でルターの改革活動を支えた伴走者たちにせまります。
最初の印刷者
16世紀初頭の神聖ローマ帝国。欧州で活版印刷が使われるようになってから約半世紀が経ち、帝国内ではケルン、ニュルンベルク、シュトラスブルク、アウクスブルク、ライプツィヒといった街が印刷の中心地でした。約20年後、それまで印刷所がなかった小さな街がその仲間入りを果たします。宗教改革の震源地、ヴィッテンベルクです。
きっかけは1502年、ザクセン選帝侯フリードリヒ賢公によるこの街の大学設置でした。所属教授のつてで印刷者が数名招聘されましたが、いずれも長続きしませんでした。1508年、新たな印刷者がエアフルトより招聘されました。ヨハン・ラウ・グルーネンベルク。ルターの最初期の出版活動を支えた印刷者です。
ドイツ宗教改革の立役者であるマルティン・ルター(1483~1546年)は聖書教授として1512年からヴィッテンベルク大学で教鞭をとるようになりました。その後、1517年に神学討論のテーマとしてルターが挙げたのが、宗教改革のきっかけとなった「95箇条の提題」です。
最盛期を支えた印刷者
ルターがラテン語で記載し、贖宥状への疑問を示したこの文書はまたたく間にドイツ語に翻訳、印刷され、それに続くさまざまな著作も印刷出版されることでルターの名前と主張が帝国内に広がっていきます。ラウ・グルーネンベルクに力量不足を感じていたルターは、高まる自著へのニーズに応えるために、近隣のライプツィヒの印刷者メルヒオール・ロター(父)にヴィッテンベルクでの印刷所開設を要請します。しかし、地元でカトリック教会からの印刷受注を堅調にこなしていたロターは息子を派遣。支店をヴィッテンベルクの宮廷画家でもあったルーカス・クラーナハの工房内に構えます。
1520年に相次いで出版されたルターの宗教改革三大文書をはじめ、ルターの出版最盛期を支えたのが、この息子のメルヒオール・ロター(子)であり、クラーナハでした。
ルターのドイツ語訳新約聖書
1521年ローマ教会から破門にされ、ヴォルムス帝国議会に召喚されたルターは、帝国内での法的保護を失うもののフリードリヒ賢公の計らいでワルトブルク城にかくまわれます。その間に新約聖書のドイツ語翻訳に取り組み、ロター(子)の印刷により1522年9月に出版しました。クラーナハが21点の木版挿絵を提供したこの「9月聖書」は3000~5000部が3か月で完売し、はやくも12月に改訂版が出版され(「12月聖書」)、同時期のバーゼルをはじめ、シェトラスブルクやアウクスブルク等でも海賊版が出回ります。当館所蔵のヨハン・クノーブロッフによるシュトラスブルク版はその一つです( ❶ )。クラーナハの挿絵を模した、ハンス・ホルバインによる挿絵が使われました。これは当初バーゼル版で使われた挿絵で、「9月聖書」で物議をかもし、「12月聖書」で削除された教皇冠をかぶった怪物や娼婦のイメージが採用されています。
最盛期のルターの出版活動を支えていたロター(子)ですが、クラーナハらと仲たがいし、1525年に街を去ります。兄のサポートのため派遣されていた弟のミヒャエルは、その後もヴィッテンベルクでルターの出版活動に従事しますが、のちに活動拠点をマクデブルクに移します。
多様な著作
ミヒャエルが1527年に印刷した『「これは私の体である」というキリストの言葉が、熱狂主義者たちに対していまもなお確立している』は、ルターが「熱狂主義者」と呼んだ、プロテスタントの中でも急進派との間で繰り広げた聖餐論争における著作の一つです( ❷ )。ルターの論敵はカトリック教会だけではありませんでした。
このようなカトリック、プロテスタント双方との論争のほか、啓蒙文書、説教、聖書講義、書簡、卓上語録など、ルターの出版活動は多岐にわたります。ロター兄弟なきあとルターの出版活動を支えたのが次の世代の印刷者たちです。
『偽預言者に用心するための説教と警告』( ❸ )はマタイによる福音書第7章についての主日礼拝の説教で、音楽系の出版に長けたゲオルク・ラウが印刷しました。反ルター派であったマイセン司教による平信徒聖杯の禁止令を受けてルターが反論した『マイセン司教の委任による両形式の秘跡について、良き友人への報告』( ❹ ) はニュルンベルクのコーベルガー工房出身のヨーゼフ・クルークによります。このほか、ニッケル・シューレンツ、ハンス・ルフトを加えた4名が主に晩年に至るまでルターの出版活動を支えますが、規模の面で抜きんでていたのが、完訳ドイツ語版聖書( ❺ )を印刷したルフトです。
新約聖書のドイツ語訳を終えたルターは、早速旧約聖書の翻訳にも取り掛かります。仲間の協力がありつつも、幅広い仕事に取り組むルターがその完訳の出版に辿り着いたのは12年後の1534年のことでした。ロターが去って以降の新約聖書や、分冊での旧約聖書など、ルター訳版聖書印刷を主に担ったのがルフトでした。
印刷の影響力を深く理解していたルターは、自著の出版を通じて印刷が街の基幹産業になっていることも理解していました。ルターはこれら複数の印刷者をうまく使い分け、ロター(子)登場後もラウ・グルーネンベルクと友好的な関係を結び、新興の小さな印刷所も気に掛けるなど、バランス発注を心がけました。
ヴィッテンベルク版著作集
ルターの膨大な著作活動は、その初期から著作集としてまとめる構想があったものの、ルター本人の無関心もあり、なかなか実現しませんでした。秘書のゲオルク・レーラーとカスパー・クロイツィガーが編纂し、ようやく1539年にドイツ語著作集第1巻が刊行されます。新約聖書書簡の講解を中心に構成された本書は1000ページを超す大著です。2巻以降はルターの死後約13年かけ、全12巻が刊行されました(❻)。別途ラテン語著作集も全7巻が作られます。この大仕事を請け負った中心人物もルフトですが、後継の印刷者たちが再版を重ねるなど、ヴィッテンベルクの複数の印刷者が関わります。当館所蔵品では再版も含め6名の印刷者の名前が確認できます。
著作集は時代の変遷とともにさまざまなバージョンが出版され、今日最も権威あるルター著作の全集はワイマール版(1883~2009年)ですが、各小冊子とともに現代までルターの思想を伝える最初の底本となったのが、このヴィッテンベルク版著作集といえるでしょう。
(印刷博物館 学芸員 式洋子)