印刷博物館ニュース

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Vol.96 - 特集1 -

企画展「黒の芸術」解題

4月26日(土)から「黒の芸術 グーテンベルクとドイツ出版印刷文化」展を開催します。
西洋で活版印刷術を確立し、印刷史のなかで最も有名な人物の一人といえるヨハネス・グーテンベルク。
その功績を振り返るとともに、印刷という営みがそこで暮らす人々の想いや社会と密接な関わりを持つことを、ドイツという国を通して検証します。

第1部 西洋の印刷術 ―複製時代の幕開け―

グーテンベルクに関する記録はわずかにとどまり、多くの謎に包まれています。恐らく1400年頃、マインツの貴族の家に生まれたこの金細工職人は、ライン川を上ったシュトラスブルク(現フランス・ストラスブール)で巡礼者用の記念鏡の製造に携わります。しかしこの事業がうまくいかず、同地で新たに取り組んだのが可動式活字を使った印刷でした。
当時の西洋での書籍とは、手書きによる写本のことでした。また、活版印刷の誕生に先行して木版による印刷本や金細工から発展した銅版印刷(エングレーヴィング)といった、文字や図版の複製は行われていました。
グーテンベルクがどのように可動式活字による書籍印刷を発想したかはわかってはいませんが、自身の職能を駆使してたどりついたのが、鉛合金による写本書体を模した活字の鋳造と、そのための道具づくりでした。さらに活字を組んだ印刷版に適した油性のインキや木製の印刷機をつくることで木版印刷や銅版印刷とも異なる、文字に特化した新たな印刷術を練り上げたのです。1448年頃までにはマインツに戻り、免罪符やラテン語文法書といった小規模の印刷物を手がけ、最終的に聖書( ❶ )という大著の印刷を成し遂げました。
グーテンベルクは当初この新しい技術を秘匿していました。その後も活版印刷術は徒弟制度のもと、印刷工房という現場で経験的・口承的に伝わっていきました。やがてこの新技術を取り扱った書物も印刷されるようになりますが、プロセスを細かく解説し、体系的にまとめられた初めての手引書が出版されたのは、聖書印刷から200年以上がたった17世紀半ばの英国においてでした( ❷ )。

❶ 42行聖書(旧約聖書零葉)
グーテンベルク印行、1455年頃、
印刷博物館蔵 [資料No.33167]
❷ ジョゼフ・モクソン
『メカニック・エクササイズ』第2巻、
1683年、広島経済大学図書館蔵

第2部 情報の伝播 ―知の継承と社会変革―

聖書印刷完遂の間際にこの新技術開発のために負った借金を返済できなかったこと、また1462年にマインツ市内で起こった政治的動乱により、秘匿していた技術はグーテンベルクの手を離れ、ヨーロッパ中に拡散します。15世紀中にはロシアをのぞくヨーロッパの約250都市に印刷所が開設されました。1455年から1500年頃までの15世紀に出版された活版印刷本は、その揺籃期にあたることから、学問上はラテン語でゆりかごを意味する「インキュナブラ」と呼ばれています。宗教書や古典作品を中心に、その8割近くがラテン語で印刷されました。
グーテンベルクによる42行聖書は見事な印刷本ではあったものの、扉ページや奥付、目次、ページ付けといった今日当たり前と考えられている書籍の体裁を備えてはいませんでした。それらはインキュナブラ時代を含む後進の印刷者たちによって追加されていったもので、徐々に現代の私たちが想像するような「書物」が形づくられていくのです。
イタリアではギリシア・ローマ古典復興の流れがルネサンスへと結びついていきますが、ドイツで印刷が大きな社会変革をもたらした最初の出来事を挙げるならば、それはマルティン・ルターによる宗教改革といえるでしょう。16世紀にドイツ東部のヴィッテンベルクに新しく設置された大学の神学教授になったルターが、神学討論のテーマとして挙げた「95箇条の提題」が改革の口火をきりました。このラテン語の提題は即座に印刷され、さらにはドイツ語の翻訳版が流布したことで、それまでカトリック教会に不満を持っていた人々の心をつかんだのです。
印刷出版による意思の表明が力を持つことを、実感を伴って知ったルターは、地元の
印刷者たちの力を借りメディアキャンペーンを繰り広げます。15世紀に印刷所がなかったこの街は16世紀にはドイツ随一の印刷都市に発展します。そして新約聖書のドイツ語訳( ❸ )をはじめ、地域によって異なる言語を使っていたドイツの人々にとって共通の言葉を紡ぐことにも力を尽くしました。ルターは出版活動を通じドイツ語統一の下地をつくったのです。

❸ マルティン・ルター訳ドイツ語新約聖書(9月聖書)、
1522年、広島経済大学図書館蔵

第3部 書体は語る ―活字が背負うナショナルアイデンティティ―

ドイツの出版物が、他のヨーロッパ諸国と異なる歴史を歩んだ点が、文字の形である印刷書体といえます。
42行聖書の印刷から約10 年後、印刷術がイタリアに伝わると、その土地で親しまれていた文字に近い、ローマン体と呼ばれる活字書体が生まれます。今日でも多くの人が目にする書体です。ローマン体はドイツでも使われますが、42行聖書にも使われた、いわゆるゴシック体と呼ばれる黒っぽい文字、すなわちブラックレターのバリエーションがドイツでは発展していきます。
時の権力者、神聖ローマ皇帝のマクシミリアン1世のためにつくられた宮廷用の書体は、やがて国の公式の文字として認定されます。ブラックレターのなかでも「フラクトゥール」と呼ばれる書体です( ❹ )。
ブラックレターは、もとは写本書体としてフランスなどで使用され始めましたが、印刷書体としてフラクトゥールが公用化されたことで、いつしかドイツを代表する文字となります。19世紀オランダの活字鋳造所の見本帳では、ブラックレターは「ドイツ文字」として紹介されていました( ❺ )。
ドイツの全ての人々が必ずしもこの文字を好んだわけではなく、常に「フラクトゥール(ブラックレター)かアンティカ(ドイツでのローマン体の呼び方)か」という議論がなされ、啓蒙主義の拡がりやポーランド分割、フランス革命、その後のナポレオン侵略といった政治的な出来事によって、人々が好む書体が時代により変化しました。最終的には議会で諮られ、投票の結果僅差でフラクトゥールが勝利し、20世紀にいたるまで国の標準文字として認識されました。またルドルフ・コッホに代表される気鋭のデザイナーによる美しく、多様なブラックレターも生まれました( ❻ )。
しかしながら、第二次世界大戦中の国の方針転換により、突如としてこの文字が国の文字としての役割を終えることになりました。国の状況と使われる書体は常に密接な関係にあったのです。

❹ メルヒオール・プフィンツィング
『トイヤーダンク』(零葉)1517年、
町田市立国際版画美術館蔵
❺ エンスヘデ活字鋳造所
『ローマン体とイタリック体の見本帳』
1883年、印刷博物館蔵 [資料No.56036]
❻ ルドルフ・コッホ
『ヴィルヘルム・クリングシュポール・シュリフト』(活字見本帳)、
1927年、クリングシュポール博物館蔵/ Klingspor Museum, Offenbach am Main

グーテンベルクとドイツ出版印刷文化

グーテンベルクが印刷史のなかで重要な位置を占めるのは、彼の発明がコミュニケーションの在り方を大きく変え、広い範囲で社会的・文化的影響を及ぼし、新たな産業の芽となったからだといえるでしょう。活版印刷はその後約500年にわたってテキスト印刷の主流であり続けました。そしてどのようなデザインで情報を伝えるか、その主要な役割を果たす印刷書体には、伝えられる内容に劣らず、そこで生きる人々の想いや政治動向といった社会的背景がからみあっていたのです。情報コミュニケーションメディアにおけるこの不可分性は、デジタル化が進んだ現代においても変わらない点かもしれません。
(印刷博物館 学芸員 式洋子)