印刷博物館ニュース

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Vol.98 - 特集1 -

あれもこれも蔦重!
お江戸の名プロデューサー蔦屋重三郎

江戸で花開いた印刷・出版というコミュニケーションメディアをたくみに使いこなした、蔦屋重三郎。
江戸時代中期の華やかな出版文化を彩った、代表的な版元のひとりです。時代の雰囲気を敏感によみとり、流行をうみだすだけでなく、兼ね備えたビジネスセンスで安定的な経営を目指しました。

江戸で成熟する印刷・出版と蔦屋重三郎

日本では江戸時代初期に京都において商業的な印刷・出版が幕を開けました。それまでは寺院や権力者を中心に印刷が行われてきましたが、ここから市井の版元(本屋)が活動の主体になっていきます。「古活字版」に代表される活版印刷から一枚の木の板に印刷面を彫って印刷する、整版(木版印刷)へと方法も変化しました。
 江戸時代中期には江戸が都市として成長し、田沼時代の重商主義により経済活動が活発化すると、自由で文化面も寛容な空気感ができ、文芸活動も活発化していきました。江戸生え抜きの版元が増え、江戸での印刷・出版を支えていくようになりました。その中には、人びとのニーズをうまく読み取り、注目されるような作品を次々と手掛ける名プロデューサーともいえる版元が現れました。文人たちの制作活動を支え、江戸時代中期の華やかな出版文化を彩っていきました。その中の代表的な人物のひとりが蔦屋重三郎(以下、蔦重)です。版元は主に専門書など堅い内容の本を扱う書物問屋と、江戸で出版された本や絵草紙を扱う地本問屋に大別されます。蔦重は地本問屋でした。蔦重は流行をよみ、黄表紙や洒落本( ➊ )を手掛けたりとヒットメーカーとして活躍しました。それだけではなく、時代の変化をうまく感じ取り、書物問屋の株を取得したりして、堅い内容の書物も刊行することで堅実な収益を得ることも考えているなど経営的なセンスをも持ち合わせていました。

➊ 洒落本『客衆肝照子』(資料No.21345)

吉原の案内書『吉原細見』の刊行とその工夫

蔦重が手掛けた有名なもののひとつに『吉原細見』があります。『吉原細見』は江戸幕府が公認した遊郭である吉原の案内書で、蔦重が手掛けた象徴的な刊行物の一つともいえるものです。
 吉原は以前日本橋人形町付近にありました(元吉原)。命により浅草への移転が決まっていました。そこに明暦の大火が発生し、一気に移転が進み、浅草寺の裏手にある現在の台東区日本堤付近へと移りました(新吉原)( ❷ )。
 『吉原細見』は、もともと蔦重の専売特許ではありませんでした。当初の主な版元には鱗形屋孫兵衛がいました。しかし、手代が出版で罪を犯してしまい、次の吉原の案内書の刊行が難しくなります。蔦重はそのわずかなスキをついて、刊行にうってでました。
 『吉原細見』は春と秋の年2回刊行されます。情報誌として改版が定期的に発生します。印刷・出版するにあたっては、いかにコストを抑えるかということも大切な要素となります。用紙代は大きく原価にのしかかります。そこで判型の変更を行い、小型本だったものを少し大きくして中本サイズに変更し、ページ当たりの情報量を多くすることを目指しました。レイアウトも工夫しています。通りを中心に町を上下にわけ、妓楼(ぎろう)の並びを表現しました。また利用者の使い勝手を考え、妓楼に屋号の紋の図版を入れたり、遊女のランクや店に分類の記号、揚代の料金を付して、わかりやすい工夫をしています。販売戦略としても製造コストを下げ、廉価にすることで更に手に取りやすい価格帯にしていきました。
 このようなレイアウトや製造の工夫もあり、蔦重版が新たな『吉原細見』の定番となり、以後長きにわたって刊行されました。後に鱗形屋孫兵衛がこの吉原の案内書の刊行に戻ってきましたが、すでにつけ入る隙は無く、『吉原細見』=蔦重のイメージが築き上げられていきました( ❸ )。

❷ 『 江戸名所図会』に描かれた新吉原(資料No.71716)
  蔦屋重三郎は吉原では、吉原大門までの五十間道に店を構えました
❸ 『吉原細見』(資料No.29386)

錦絵の活用

浮世絵版画は一七六五(明和二)年に絵暦交換会で多色摺木版画が出品され、錦絵となりました。これが人気を博して江戸のお土産にもなり、浮世絵の代名詞にもなります。天明〜寛政期(一七八一〜一八〇一)は錦絵の黄金期ともいわれる時代でした。
 蔦重は寛政の改革で綱紀粛正が図られる中、寛政の出版取締り令が出されると、山東京伝の『仕懸文庫』をはじめとした洒落本三部作が発禁処分となり、見せしめのように蔦重も身上半減の厳しい処罰を受けました。なんとかこの窮地を脱するため、この「錦絵」を再起をかける一つの手段にしました。役者絵に用いられていた上半身をアップにした「大首絵」の技法を美人画に取り入れます。絵師には女性の内面や艶っぽさを描写するのが得意な喜多川歌麿を登用し、美人大首絵として矢継ぎ早に刊行しました。また、背景には雲母(きら)摺りで豪華に演出を施して人びとの注目を集める工夫をしました。人びとの視覚を刺激し、ビジュアルによるコミュニケーションを活かした活動をしていきました。

蔦屋の店先が描かれた『東遊』

狂歌は短歌の形式をとり、社会風刺などを盛り込んだものです。「連」というサロンが形成され、活動が活発化し、江戸時代中期にブームになりました。その各地の連による狂歌を掲載した絵入り狂歌本が『東遊』です。挿絵には日本橋や隅田川など江戸の名所風俗が描かれています。墨摺りで、葛飾北斎が挿絵を描き、ヒットしました。二代目の蔦屋重三郎は、この挿絵に絵本として更なる売上増加の可能性を感じ取ります。タイトルを『画本東都遊』とし、狂歌部分の丁は削り、挿絵を多色摺りにしてビジュアルの印象をさらに上げ、これがまた大ヒットしました。
 『東遊』には江戸の名所の一つとして絵草紙店として、蔦重の自分の店である「耕書堂」の店先が描かれています。それだけではなく、ここに本づくりの一端が垣間見えます。丁合している人、断裁している人、端っこを整えている人が描かれていますが、実際に軒先で作業していたかは懐疑的です。また棚に錦絵が積み重ねられ、店の看板にはこれからの刊行予定の本の名も記されており広告しているのでしょう。店の屋号が表記されたディスプレイをみると紅絵問屋とあります。紅絵は当時より少し前の浮世絵版画でした。その店であるとして、自分たちは老舗の本屋であると宣伝しようとしたのかもしれません( ➍ )。

➍ 『 東遊』(資料No.45116)

おわりに

蔦重のもとには多くの文人墨客が集いました。喜多川歌麿、葛飾北斎、曲亭馬琴、十返舎一九、大田南畝、山東京伝などあげたらきりがありません。彼らは蔦重の死後も、成熟化が進む印刷・出版の中で、さまざまな作品をつくり上げていきました。戯作という江戸独自の文学で、江戸の世相・文化を色濃く反映し、合巻や読本など多様なジャンルが生まれ、出版物がメディアとしてにぎわい、読者層を広げていきます。そういった知識人、文人が集っていました。そのような人を育てた点も含め、蔦重がのちの時代の印刷・出版に与えた影響は計り知れないものがあるのかもしれません。
 9月2日(火)からミニ展示として「あれもこれも蔦重! お江戸の名プロデューサー蔦屋重三郎」を開催しています。蔦重がもつ多面性や当時の印刷文化のあゆみとのかかわりを常設展エリアとからめて紹介します。こちらは「五館連携 蔦重手引草」での当館の展示です。他の4館は「太田記念美術館」「大東急記念文庫」「たばこと塩の博物館」「国文学研究資料館」です。各館をめぐっていただくことで、江戸の名版元の一つにも数えられる蔦重の多面性やすごさを感じていただけるのではないでしょうか。
(印刷博物館 学芸員 宇田川龍馬)

【参考文献】
・印刷博物館編『日本印刷文化史』(講談社、2020年)
・川瀬一馬『入門講話日本出版文化史(エディター叢書 33)』(日本エディタースクール出版部、1983年)
・ 今田洋三『江戸の本屋さん―近世文化史の側面(平凡社ライブラリー 685)』(平凡社、2009年)
・鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(若草書房、1998年)
・鈴木俊幸『蔦屋重三郎 (平凡社新書 1067)』(平凡社、2024年)