印刷博物館ニュース

印刷博物館ニュース
vol.85 - 特集2 -

活字のブランド PIN MARK

さて、皆さんはピンマーク(ドイツ語ではグスマルケンGussmarken )と呼ばれる活字の側面に刻印されたマークや記号をご存じでしょうか? 
今回は活字が製造された長い歴史の中でほんの短い時期のみに出現する、ニッチなピンマーク活字のお話です。

「PIN MARK」ピンマークとは

ピンマークはもともと15世紀中頃からのハンドモールドと呼ばれる手作業による活字鋳造の黎明期から、活字を鋳型(いがた)から確実に離す(取り出す)ために機能する「窪み」(ドラッグ・ピンとも呼ばれる)として存在していたようです。ピンマークとして印刷関係者に多く認知されるようになるのは鋳造機の機械化に伴い、この「窪み」に会社のイニシャルやマーク意匠を施し、商標として多く使用されるようになった1840年頃からで、その意匠はより装飾的なものに昇華していくことになります。
それでは、印刷博物館が所蔵する活字の中から、ピンマークの種類を簡単に説明します。ピンマークは、欧文・和文活字や木製活字にも存在します。欧文活字のピンマークは種類も多様で、時代や活字サイズによっても表示が変わり、鋳造所の創設者名、社名の記号、鋳造場所、活字のサイズ等が刻まれます。和文活字のピンマークも同様に経営者や社名の頭文字を刻印したものが多く、また、木製活字は製造工程の最後に「A・a」の文字だけに鋳造所名やマーク、書体番号などがパンチ(型押し)で打ち込まれたものが散見されます。私たちはこれらのピンマークから、その活字がつくられた鋳造所や製造時期を推定する手がかりとしているのです。

❶いろいろなピンマーク 
上段:日本の活字 中段:海外の活字 下段:海外の木活字

鋳造機の進歩とピンマークの興隆

ピンマークの出現には鋳造機の進歩が密接にかかわっています。ここからはアメリカでの鋳造機の発明と欧文活字のピンマーク興隆について見ていきたいと思います。アメリカでは1776年の「独立宣言」後もしばらくはヨーロッパからの印刷技術や機械の輸入に頼っていました。しかし1800年中頃になると今度は逆にアメリカから新しい技術や機器を創り出し、海外へ輸出していくことになります。1838-45年にデヴィッド・ブルース2世がポンプで鋳型に鉛合金を流し込む手回し活字鋳造機を発明し、特許を取得します。これは当時としては画期的な鋳造機で、今まで手作業で行っていた鋳造工程を初めて機械化することで生産効率を飛躍的に向上させました。手動でハンドルを半回転させると母型がセットされた鋳型に溶けた鉛合金( 地金)が流し込まれ、次の半回転で鋳型が開き、上鋳型【※1】の突起ピンマーク部分に活字がついた状態で持ち上げられ、受け皿に落とされます。落とされた活字は別工程で余分な尻尾のような贅片(ぜいへん)が切落とされて、活字が出来上がります。この鋳造機はすぐにさまざまな改良が加えられ、ブルース型として複製され全世界に拡散されていきます【※2】。この鋳造機に必要不可欠な機能であったピンマークも共に広がり、まさに1900年までがその黄金時代と言えるでしょう。

❷ブルース型手回し活字鋳造機(国友鉄工所)
鋳型部拡大

※1 鋳型は2つの開閉できる上鋳型と下鋳型から成り立ち、上鋳型を上下させて「閉じて」、「離れて」を繰り返す。
※2 日本には明治初期に初めて導入された。印刷工房では国友製のブルース型鋳造機を展示している。

著作権保護とクローン書体

1838年にロシアで電気鋳造法(Electrocasting)【※3】が発明されると活字の鋳造技術にも応用され、多くの鋳造所で簡単に母型や活字を複製できるようになります。また、技術革新による活字鋳造の機械化も拍車をかけて、堰を切ったように不正な海賊版活字が乱造されます。イギリスでは1842年に装飾デザイン法(The Ornamental Designs Act)【※4】が施行され、1876年には初めて活字モデルの意匠特許が発効されますが、法規制だけでは複製乱造を止めることはできません。また、著作権保護の欠如は新しい活字を生む活力をも削ぎ落してしまいます。このような時代だからこそ、各鋳造所は各々のアイデンティティーを守る意味でピンマークによるブランド訴求に重点を置くようになります。まず、イギリスで正統活字としての証明として、意匠登録済のRegistered, 略号「Rd」をピンマークや活字面の空きスペースにまで刻印するようになります。そして、欧米の鋳造所や日本でも屋号とともに専売特許を謳うピンマークが確認されています。

❸活字に刻印されたRd(意匠登録済)マーク:
イギリスのカスロン社、スティーブンソン・ブレイク社、ハッドン社、日本の字母宗製造所

※3 原型(種字)から電解液中の金属イオンを型(マスター)の表面へ電着させ、原型の形状を忠実に複製する技術。
※4 活字鋳造に3年間の保護を与えたが、特許期限が切れると多くの鋳造所にコピーされた。

技術革新とピンマークの衰退

アメリカでは1860年代に本格的な電力による産業革命時代を迎えます。これに伴い数多くの鋳造所が全米に乱立し、まさに活字の大量生産が本格化します。1885年にヘンリー・バースにより鋳造は自動化され、活字を横方向に自動排出する装置が開発されると、早くもピンマークが果たした機能は必要なくなります。アメリカは1890年代にはついに世界最大の工業国となるのです。しかし、皮肉にも技術革新による活字の過剰生産が過当競争の激化を引き起こします。活字の価格は劇的に下落し、鋳造所は悲惨な価格競争の波にもまれ、統廃合が加速します。ついに1892年に鋳造所23社の合併によってアメリカン・タイプ・ファウンダーズ・カンパニー(以下A.T.F.社)が設立されるのです。A.T.F. 社は1902年から1906年にニュージャージーの工場に統廃合がなされ、存続させる各鋳造所は地域によりAからJまでの頭文字でグループ分けがなされます。合併後の新しい活字は「アメリカンライン」と呼ばれ、当初頭文字と連動したピンマークが導入されています。しかし、ここA.T.F.社でもピンマークは新しい鋳造システムの導入とともに、徐々に消え去る運命をたどるのです【※5】。
いかがでしたか。活字文化が花開いていく、その一時代を華やかに彩ったピンマークは、それぞれの鋳造所の誇りや名誉が刻まれた、まさに「兵どもの夢の跡」とも言えるのではないでしょうか。
(印刷工房 インストラクター・研究員 木谷正人)

❹アメリカにおける鋳造所のピンマーク(一部):
上段・中段 A.T.F.社統合前 下段 統合後

※5 一部、ピンマークをブランド差別化の目的だけで自動鋳造機に付加した鋳造所もある。